その日タクマ・サカザキを驚愕せしめたのは、ほかならぬタクマの愛娘、ユリ・
サカザキであった。
「ユリ!? どうしたことだ、それは!?」
「え?」
道着の帯を締めていたユリが、かすかに震える父の声に顔を上げた。
「――どうしたの、おとうさん?」
「どうしたの、ではない! その髪! それはいったいどういうことだ!?」
「ああ、これ?」
背中の中ほどまであったはずのユリの髪が、今は肩のあたりまでしかない。
すっきりと短くなった髪に触れ、ユリは微笑んだ。
「いつも走ってるジョギングコースの途中にね、新しいヘアサロンができてたん
だ。それで、どんなカンジか一度入ってみようと――」
「ワシが聞いておるのはそのようなことではない!」
ユリの言葉をさえぎり、タクマは声を荒げた。
道場にはタクマとリョウ、ユリのほかに、帯の白い練習生たちもちらほらといた
が、みな一様に目を丸くしてタクマを見つめている。どうしてタクマがいきなり怒
り出したのか理解できない様子だった。
リョウは眉をひそめて父に歩み寄った。ユリの兄であり、タクマの息子でもある
リョウには、タクマがなぜ急に不機嫌になったのか、何となく判っている。このへ
んでやめさせておかないと、練習生たちの前で恥をかくことになりかねない。
「おい、親父、あのな――」
「おまえは黙っていろ! いいか、ユリ! ワシがいいたいのはだな――」
「どないしたんや、みんな? 何ぞあったんかいな?」
リョウを憮然とさせたタクマがあらためて何かいいかけたところに、丸めた道着
を肩から下げたロバート・ガルシアが現れた。
「――おっ? ユリちゃん、髪切ったんか?」
「あ、うん」
「へえ、ショートもよう似合ぅとるやん。可愛いなあ」
「もう、ロバートさんたら」
顔を見合わせてにこやかに笑うユリとロバート。
「――せや、ユリちゃん、きょうはワイの組手の相手してくれへんか?」
「いいよー。ちゃんと手を抜かずに相手してくれるんだったらね♪」
「当たり前やろ、今のユリちゃん相手に手加減なんかできるかいな」
「――あー、ロバートくん」
ロバートの登場に話の腰を折られた感のあるタクマは、苦虫を噛み潰したよう
な表情のまま、ふたりの会話に割って入った。
「組手がしたいのならワシが相手をしてあげよう」
「え? お父さんがでっか?」
「きみにお父さんと呼ばれる覚えはないが、それはともかく、ユリが相手ではも
の足りんだろう」
「ちょっと、おとうさん――」
「おい」
むっとしたように父に文句をぶつけようとしたユリを、リョウがそっと押しとどめ
た。
「今はやめとけ、ユリ」
「だけどそんなの勝手すぎじゃない! それにさっきだって――」
「まあ、親父の気持ちも判らんじゃないがな」
「え?」
リョウの言葉に、ユリは怪訝そうに首をかしげた。
「ま、ほかの練習生たちの手前、ここは我慢してくれ」
大急ぎで道着に着替えてきたロバートは、帯を締めながらタクマの前に立つ
と、ちらりとリョウたちのほうを一瞥し、苦笑混じりにウインクした。たぶんロバー
トも、タクマが不機嫌な理由にすでに気づいているのだろう。
リョウは軽く手を合わせて無言でロバートに謝ると、ユリをうながし、ふたりで
軽く組手を始めた。
◆◇◆◇◆
「まったく! どうしてサカザキ家の男たちってああなのかしら!?」
アイスカフェオレをストローでくるくるかき混ぜ、ユリは憤然ともらした。
「――おにいちゃんなんて、『髪切ったのか。ふーん』よ? 似合うとも似合わな
いともいってくれないのよ? おとうさんにいたっては、あんなわけの判らないリ
アクションだし! 少しはロバートさんを見習えばいいのに!」
「まあまあ」
1日の稽古を終えたあと、ユリとロバートは高台にある見晴らしのいいオープ
ンカフェに来ていた。買い物に行くといって家を出てきたユリだが、実際には、こ
うしてロバートがユリの愚痴につき合わされている。
「空手の鬼といわれたお師匠さんかて人の子、いや、人の親や。ユリちゃんのこ
とが気に懸かるんやろ」
「え? 何それ? どういうこと?」
「まあ、そのへんは家族やあれへんワイがあれこれいうことやない。リョウにでも
聞いたらええよ」
カプチーノのカップを置き、ロバートは意味ありげにその話題を切り上げた。道
場でのリョウといい、今のロバートといい、何がいいたいのかユリには今ひとつ
よく判らない。
「――けど、たぶん、お師匠さんの本音をいうたら、これ以上ユリちゃんに空手
を続けてほしくないんちゃうかな?」
「え? わたしに空手をやめろってこと?」
「そやのうて、大会に出るとか、そういうレベルの空手の話や。もともとユリちゃん
が空手を始めたんは、護身術のつもりやったろ? けど、今のユリちゃんの空
手は護身術なんてレベルを超えとるし、ごく当たり前のように大会にも出とる。
……これって本末転倒とちゃうか?」
ロバートの指摘にユリは口ごもった。確かにユリが空手を始めたのは護身術
のつもりだった。それがいつの間にか本格的なものになり、今では“キング・オ
ブ・ファイターズ”の常連選手とまでいわれている。自分の身を守るために始め
たはずの空手が、みずから傷つくこともいとわずに戦うための手段となっている
のでは、本末転倒といわれても仕方がないだろう。
「おーい!」
ユリがじっとうつむいていると、聞き慣れた兄の声が飛んできた。見れば、この
カフェまでつながる石段の一番下のところで、革ジャン姿のリョウがふたりを見
上げて手を振っている。
「――そろそろ帰るぞ、ユリ!」
「おにいちゃん……」
「さっきワイが連絡しといたんや。行きがワイの愛車で帰りがリョウのオンボロバ
イクじゃ、あんまカッコつかへんけどな」
カプチーノをすすり、ロバートは笑ってユリを見送った。
◆◇◆◇◆
家までいっしょに乗っていくはずだったリョウのバイクは、途中でガス欠を起こ
してしまった。重いバイクを押していくはめになったリョウは災難だが、結果的に
はよかったのかもしれない。
「――親父はなあ」
「うん」
「考えてみると、髪の長いおまえしか見たことがないんだよ」
「え、そうだっけ?」
アスファルトの上に、夕陽を受けてふたりの影が長く伸びている。それをじっと
見下ろしていたユリは、兄のしみじみとした口ぶりに、ふと顔を上げた。
「そうだよ。おまえが前にショートだったのは、確かジュニアハイスクールの頃
だったし」
「ああ――うん、あの時はソフトボールばっかりだったしね」
「でも、親父はその頃いなかっただろ」
「そっか……」
それでようやく、ユリにも兄やロバートのいいたいことが理解できた。
ユリが幼い頃に姿を消したタクマは、娘が少しずつ成長していくところを見てい
ない。そして、タクマが我が子たちと再会した時、すでにユリは大人の女性と
なっていた。
「そのへんの負い目もあるから余計にそうなるんだろうな。……たぶん親父は、
今になっておまえのことが気に懸かってしょうがないんだよ。それこそ、おまえ
が見慣れない髪型に変えただけで、何かあったんじゃないかってさ」
「だけど、おにいちゃんには特に何もいわないじゃない」
「それは俺が男でおまえが女だからだろ。……おまえもそろそろ将来のことを考
えていい年だしな」
それを聞いてユリは思わず噴き出した。まさかこの空手ひとすじの兄から、将
来のことを考えろといわれるとは思わなかったのである。
リョウは眉をひん曲げ、かたわらを歩くユリを見下ろした。
「何なんだ、今の反応は? 俺だって将来のことぐらい考えてるぞ?」
「たとえばぁ?」
「そりゃ決まってるさ、極限流を極めることだよ」
「いうと思った」
想像通りといえば想像通りの答えに、ユリは苦笑せずにはいられなかった。本
気でこういう答えしか返せないくらいに、リョウは不器用な男なのである。
ユリは頭の後ろで手を組み、夕焼け空を見上げて溜息混じりにいった。
「あ〜あ、おにいちゃんの不器用さはおとうさんゆずりだね、ホントに。……キン
グさんがちょっと可哀相になってきちゃった」
「ん? 何かいったか、ユリ?」
「何でもな〜い♪」
眉をひそめるリョウを残し、ユリは駆け出した。
「あ! おい、ユリ!」
「わたし、ちょっと走り込んでから戻るから!」
「それはいいが、あんまり遅くなるなよ!」
「それとね!」
肩越しにリョウを振り返り、ユリはつけ足した。
「わたし、今度の大会はキングさんや舞ちゃんといっしょに出るから!」
「何!? ――おい、ちょっと待て! 初耳だぞ!」
「そういうわけだからぁ、おにいちゃんたちは男くっさ〜い3人組でエントリーして
ね! わたしがどれだけ成長してるか、おとうさんにもおにいちゃんにも、あらた
めて判らせてあげるよ!」
「おいこら、ユリ――!」
走るユリの後ろから、兄の声が追いかけてくる。それを振りきるように、ユリは
スピードを上げた。
「やれやれ……」
あっという間に小さくなっていくユリを見送り、リョウは嘆息した。
はっきりと口にこそ出さないが、父が年頃になったユリのことをあれこれと気に
懸けているのはリョウにも判る。最近は特にそうだった。
そんなタクマが、またユリが別のチームで参戦するなどと聞いたら、おそらくこ
めかみに青筋を立てて激昂するだろう。
とりあえずリョウにできるのは、ユリが帰宅してタクマにKOF参戦の話題を切
り出した時に、父をなだめてユリの味方をしてやることくらいだった。
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